アンゲラ・メルケル
アンゲラ・メルケル Angela Dorothea Merkel |
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| 生年月日 | 1954年7月17日(56歳) |
| 出生地 | ハンブルク |
| 所属政党 | ドイツキリスト教民主同盟 |
| 配偶者 | ヨアヒム・ザウアー |
| 内閣 | メルケル内閣 |
| 就任日 | 2005年11月22日 |
| 連邦大統領 | ホルスト・ケーラー |
| 内閣 | 第5次ヘルムート・コール内閣 |
| 就任日 | 1994年11月15日 |
| 退任日 | 1998年10月27日 |
| 内閣 | 第4次コール内閣 |
| 就任日 | 1991年1月18日 |
| 退任日 | 1994年11月15日 |
| 選挙区 | メクレンブルク=フォアポンメルン州 |
| 当選回数 | 4回 |
| 就任日 | 1990年 |
| 就任日 | 2000年 |
アンゲラ・ドロテア・メルケル (Angela Dorothea Merkel, 1954年7月17日− ) は、ドイツの政治家。キリスト教民主同盟 (CDU) 党首(2000年− )。第8代ドイツ連邦共和国首相。ドイツでは女性としては初の大政党党首・首相である[1]。
目次 |
略歴
科学者
ハンブルク生まれ。父ホルスト・カスナーがキリスト教・ルーテル教会の牧師であり、東ドイツの担当となったため、1954年に妻と生後数週間のアンゲラと共に東ドイツへ移住する。母はラテン語と英語の教師であった。東ドイツでは教会は反政府勢力の拠点であったが、カスナ-は政府に「進歩的勢力」とみられていた会派の所属で危険視されておらず、西側へ旅行できる特権も与えられていた。東ドイツで弟一人と妹が二人生まれる。
学校時代のアンゲラは付き合いは良いが目立たない生徒であったという。成績は優秀で中学校時代の全科目の平均評価は1.0(日本でいえば「オール5」)であり、特にロシア語[2]と数学に優れていた。家が宗教家のため加入義務はなかったが、ドイツ社会主義統一党(SED)の下部組織である自由ドイツ青年団(FDJ)に属していた。1973年にカールマルクス・ライプツィヒ大学(現ライプツィヒ大学)に入学、物理学を専攻する。
在学中の1977年に同学部の学生ウルリッヒ・メルケルと結婚(現在の姓は彼に由来)。しかしこの結婚生活は4年で終わった。1978年、優良の成績で学士号を取得、東ベルリンにある科学アカデミーに就職し、理論物理学を研究する。ここで現在の夫ヨアヒム・ザウアーと出会うが、二人が結婚するのはずっと後の1998年である。1986年、博士論文を提出して博士号(Dr. rer. nat.)を取得。分析化学に配置転換となる。同年初めて西ドイツを旅行。これは審査で国家に忠実とみなされた者にのみ許される権利だった。この頃の彼女に政治活動は見られず、SED党員でもなく反政府活動もしていなかった。
「コールのお嬢さん」
1989年の「ベルリンの壁」崩壊時、先行きが不安になった科学アカデミーを辞職(1991年にアカデミーは廃止された)、「民主主義の出発」の結党メンバーになる。同党では報道官を務めた。1990年に東ドイツで行われた最初にして最後の自由選挙でこの党はCDU(西ドイツのCDUとは別組織)と統一会派を組んでいたたため、東ドイツ最後のデメジエール政権で副報道官に就任した。ドイツ再統一直前にCDU(西ドイツ)党大会に出席し、党首で西ドイツ首相のヘルムート・コールに初めて出会う。10月3日の統一後CDUに入党し、1990年12月2日の連邦議会選挙で故郷メクレンブルク=フォアポンメルン州から出馬して初当選。
初当選議員ながら第四次コール政権の女性・青少年問題相に抜擢され周囲を驚かせた(1991年1月18日就任)。党内基盤の全くない彼女はブランデンブルク州の党支部代表を目指すが敗北。しかしシュタージへの協力という過去が明るみに出たデメジエールの辞任を受け、後任のCDUの連邦代表代理に就任。ついで1993年にはついにメックレンブルク=フォアポンメルン州の党支部代表に就任した。1994年10月の連邦議会選挙の結果成立した第五次コール政権では環境・自然保護・原発保安担当大臣に就任。前任者クラウス・テプファーの環境保護政策は経済優先のCDU党内や連立相手の自由民主党(FDP)に受けが悪かったが、メルケルは就任三ヶ月目にテプファー以来の事務次官を更迭してこれに応えた。なお東ドイツ時代の知人は彼女がその性向から「緑の党」に参加すると思っていたので、CDUへの入党に驚いたという。ちなみに彼女の母は統一後は社会民主党(SPD)の熱心な支持者になり、牧師である父もCDU支持者ではないという。
1998年の連邦議会選挙で歴史的な大敗を喫したコール政権が終幕を迎え、CDUは野党に転じる。コールを継いでCDU党首に就任したヴォルフガング・ショイブレの提案により、彼女は同党幹事長に就任。1999年11月に同党のコール政権時代のヤミ献金が発覚すると、メルケルはいち早く「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」に寄稿して公然とコール元首相を批判、彼から距離をとることを党員に訴えた(現在ではコール元首相と和解している)。2000年2月にヤミ献金問題によりショイブレCDU党首が辞任すると、4月の党大会で承認されCDU党首に就任した。
CDU党首
CDU党首とCDU/CSU連邦議会議員団長というショイブレのポストは党首がメルケルに、議員団長がフリードリッヒ・メルツCDU財務担当にと別々に引き継がれたように、旧東独出身のプロテスタント、女性であり、しかも離婚歴のあるメルケルはCDUではリベラル派とみなされ、保守本流からは懐疑の目で見られていた。トップのヤミ献金疑惑にショックを受けたCDUの地方党員・一般党員が、保守本流からは外れるメルケルを党首に押し上げた。実際のところ、州首相の経験もなく、連邦議会議員団長でもなかったメルケルは連邦首相への通例のコースからは外れており、党内権力基盤も弱かった。「コールのお嬢ちゃん」(Kohls Mädchen) と呼ばれていたのがその証拠の一つで、内閣の旧東独出身者と女性の割合を増やすための数合わせに過ぎないとコール政権時代はなめられていた。
しかし、メルケルはその後着々と権力基盤を確実にしていく。2000年の時点で保守本流を代表し将来の首相候補と嘱望されていたのは、1999年に社会民主党(SPD) の強かった「赤いヘッセン州」でハンス・アイヒェル州首相を破ったローラント・コッホであったが、コッホが率いるヘッセン州CDU支部自体が2000年にヤミ献金問題の直撃を受け、全国レベルで保守陣営を代表できなくなった。2002年の総選挙では、姉妹政党であるキリスト教社会同盟 (CSU) のシュトイバー党首兼バイエルン州首相が保守陣営の首相候補となる。1月11日に行われたその協議の際、メルケルは首相候補を諦める代わりに、総選挙後に連邦議会議員団長のポストを得るという密約があったといわれている。この総選挙は野党連合の惜敗に終わり、シュトイバーの初のバイエルン出身首相という野望は潰えたが、メルケルは選挙後にメルツCDU/CSU連邦議会議員団長からその地位を奪い取る。
国政でのSPDと緑の党の連立与党の不人気にも助けられて、州政レベルでCDUはその後確実に政権を奪っていき、2004年のホルスト・ケーラー連邦大統領の擁立にも成功する。メルケルは以前のように一般党員、地方党員だけではなく、旧西独出身の保守本流の政治家達も一目置かざるを得ないやり手の政治家に成長した。更に2005年に入りシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州とノルトライン=ヴェストファーレン州での州議会選挙のCDU勝利により、シュレーダー首相の賭けで前倒し実施されることになった2005年の連邦議会選挙を、CDU/CSUの首相候補かつ初の女性首相候補、初の東独出身候補として戦うことになった。この頃にはかつてのあだ名と引っかけて「鉄のお嬢さん」(Eisernes Mädchen) と呼ばれるようになった。無論これには「鉄の女」と呼ばれたサッチャー元英国首相に比しての意味合いがあり、二人には科学者出身、保守系、女性政治家という複数の共通項があるためである。[3]
首相就任
2005年9月18日に行われた総選挙では、メルケル率いるCDU/CSU連合はシュレーダー首相率いるドイツ社会民主党 (SPD) / 緑の党連合に僅差で勝利した。しかし改選前より議席を22も減らしたために自由民主党 (FDP) と合わせても過半数には届かず、緑の党との連立協議も不調に終わったことから、SPDとの連立以外に現実的な選択肢がなくなった。SPDと政権運営についての折衝が始まると、10月10日にはCDU・CSU・SPDの三党による大連立[4]を組むことで合意したが、CDUとSPDの最終議席配分がわずか4議席差だったことから連立協議は難航した。最大の争点は誰が首相になるかで、CDUは比較第一党として「メルケル首班」を譲らず、SPDは「2年経ったらシュレーダーと交代」案を持ち出して政権に執着した。結局CDUが単独で首班を取るのと引き換えに、16ある閣僚ポストのうち半数の8をSPDに譲るという妥協が成立。11月22日、メルケルは第8代連邦首相に就任した。
メルケル政権は発足当初から積極的な対露・対米外交を展開して高支持率をたたき出し、2006年3月の3州議会選挙でも勝利して、連立政権はひとまず順調にスタートをきった。ドイツは引き続きフランスと東ヨーロッパ諸国、特にロシアとの友好関係を継続、将来的にはトルコのEU 加盟を支援するが前政権ほど積極的ではない。さらには中道左派の社民主義・リベラル政党であるSPDと中道右派の保守政党であるCDU/CSUでは政策綱領が大きく異なっていることは否めず、また財務大臣などの重要閣僚ポストをSPDへ譲ったこともあって、先送りされているメルケル政権の看板政策の中心で政治公約である雇用促進によるドイツ国内の雇用、年金制度の大幅な改革によるメルケル改革の実現、健康保険制度改革や法人税率改革などの内政面の課題の帰趨は不透明な状態で、今後どこまで両党が政策合意を重ねてゆけるかが注目された。
2006年末、任期後半の目標として連邦制改革、官僚主義の打破、科学研究の振興、エネルギー政策、財政建て直し、家族政策(少子化対策)、労働・市場政策、そして最重要課題である健康保険制度改革の8点を掲げた。メルケルの政策には果断さはなく対処的なものではあるが、就任当初はその政策実行力を不安視されたものの、国民のみならず経済界や国外からも安定した支持を得ている。2007年前半の欧州連合(EU)議長国、6月のドイツ・ハイリゲンダムでの主要国首脳会議議長も無難にこなし、また二酸化炭素排出量削減など環境保護政策でもイニシアチヴを発揮している。
逸話
- エカチェリーナ2世を尊敬しており、オフィスに彼女の絵がある。
- 少女時代に犬に噛まれた事がある。2007年にソチでロシアのプーチン大統領と会談中、プーチンの愛犬「コニ」が乱入して彼女の足下に座った。
- 2006年、2007年、フォーブス誌から「世界で最も力のある女性」に選ばれた。
- 同年のG8サミットでは、アメリカのブッシュ大統領に肩を「触れられた」際、驚いて肩をいからせるリアクションをとり話題となった[5]。
- 2007年2月12日付のフィナンシャル・タイムズ紙(ドイツ語版)でドイツの野党議員の発言が切っ掛けに巻き起こった日本車賛美論争で、自身の愛車のメーカーがフォルクスワーゲンであると発言した。
- 今の夫はフンボルト大学教授で量子力学学者のヨアヒム・ザウアー。ザウアーは2005年のメルケルの首相就任に際しても公の場に現れなかったため、彼がワーグナーを好んでいることにかけて「オペラ座の怪人 (Das Phantom der Oper)」とあだ名された。2007年のハイリゲンダム・サミットには姿を現わし、首脳伴侶の行事に黒一点参加した。
- 2007年8月29日に、首相就任後初めて来日した。
- 2007年9月23日、ドイツの首相として初めてダライ・ラマ14世を首相官邸に招いて会談し(会見したのはCDU党首時代以来二回目)、中華人民共和国政府の抗議を受けた。シュレーダー政権同様中国重視に変わりはないが、より人権重視の姿勢を見せており、EUの対中武器輸出解禁には反対の姿勢を示している。
- 世界の国家指導者で初めてビデオ・ポッドキャストを使用して、週末ごとの国民への政策説明に使用している。
- 2006年4月、休暇先で水着に着替えている後ろ姿をパパラッチされ、イギリスの大衆紙「ザ・サン」などに掲載された。
語録
- 「私は体育の授業の間ずっと飛び込み台の板の上に立っていて、45分たってようやく飛び込むタイプの人間です」(2000年)
- 「多文化主義は見事に失敗した」(2004年)
- 「窓ですね! こんなに頑丈で美しい窓を作れる国はないですから」(2004年、「ドイツと聞いて連想するものは?」と聞かれ)
- 「赤緑連立(SPD+緑の党)が治めていない一日一日が、ドイツにとってのいい日です」(2005年)
- 「ドイツに仕えます」(首相候補に指名されての第一声)
- 「女子代表はもう世界一になりました。女に出来て男に出来ない理由など無いと思います」(翌年のワールドカップを控えて、2005年末の国民向け挨拶で)
- 「ミュンヘンの人が『ベルリンへ行こう!』と叫ぶのは、何か素晴らしいことだと思う」(ワールドカップ中の2006年6月、ミュンヘンでドイツ代表がスウェーデン代表を下し、歓喜するファンが「決勝戦の行われるベルリンへ行こう!」と叫んでいるのを受けて。聞きようによっては、この前年メルケル内閣への入閣を拒否したシュトイバー・バイエルン州首相への嫌味に聞こえる)
- 「ヨーロッパがキリスト教クラブでないというのは正しい。しかしヨーロッパが人権と市民権を基本とするというのもまた事実です。そしてここドイツでは、人権と市民権をキリスト教的人間像に重ねているのです」(2006年のCDU党大会で)
- 「中国は我々のように知的財産権を尊重することを学ばねばならない。なぜならそれを簡単にコピーすることは窃盗だからです」(2006年)
注
- ^ 連邦首相はドイツ語で Bundeskanzler だが、女性の場合名詞の語尾が女性名詞形に変化してBundeskanzlerin になる。
- ^ 東ドイツで必修科目だったロシア語に堪能であることは、東ドイツに滞在経験もありドイツ語が達者なウラジーミル・プーチン・現ロシア大統領との関係にも好影響を与えているとみられる。
- ^ ”Eisernes Mädchen"のもう一つの意味は中世の拷問用具である《鉄の処女》であり、メルケルが選挙戦で掲げていたラディカルなネオリベラル改革の残酷さを左派陣営が揶揄して、こう呼んだ
- ^ 二大政党が大連立を組むのは1966−69年のキージンガー政権以来となった。
- ^ アメリカでは面識のある異性の肩に手をかけるぐらいの行為は親しみの表現として容認されている。
関連項目
外部リンク
- ドイツ連邦首相府(ドイツ語)
- Angela Merkel's Homepage(ドイツ語)
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