ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム
| ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム Los Angeles Angels of Anaheim |
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| 創設: 1961年 | |
| 所属リーグ | |
| 歴代チーム名 | |
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| 歴代本拠地 | |
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| 収容人員: 45,050人 | |
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| 獲得タイトル(獲得年) | |
| ワールドシリーズ優勝 (1回) | 2002 |
| リーグ優勝 (1回) | 2002 |
| 地区優勝 (6回) | 1979 • 1982 • 1986 • 2004 2005 • 2007 |
| ワイルドカード (1回) | 2002 |
| 球団組織 | |
| オーナー: アルトゥーロ・モレノ | |
| GM: トニー・リーギンス | |
| 監督: マイク・ソーシア | |
ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム (Los Angeles Angels of Anaheim、略称:LAA) は、アメリカメジャーリーグ、アメリカンリーグ西地区所属のプロ野球チーム。本拠地はカリフォルニア州アナハイムのエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム。正しくは「エンジェルズ」であるが、日本ではエンゼルスと表記、発音されることが多い。
目次 |
概要
1961年のアメリカンリーグの球団拡張によって誕生した球団である。1979年に初の地区優勝。1982年と1986年にも地区優勝を遂げている。しかしいずれもプレーオフで敗れ、リーグ優勝はならなかった。2002年にワイルドカードを獲得し、そのまま勝ち上がって初のワールドチャンピオンに輝いた。2003年以降は大規模な補強を行い、2007年までに3度の地区優勝を果たすなど、リーグ屈指の強豪チームに成長した。
2008年現在、マイク・ソーシア監督の下、投手陣ではジョン・ラッキー、ケルビム・エスコバー、フランシスコ・ロドリゲス、打撃陣ではブラディミール・ゲレーロ、ショーン・フィギンズといった攻守共に豊富な人材を揃える。アメリカンリーグ西地区はもちろん、リーグ全体でも屈指の実力をもつ強豪チームである。スモールボールを標榜としており、送りバントや盗塁を積極的に行う。しかし、シーズンでは安定した強さを誇っているものの、ポストシーズンでは得点力不足に陥り、なかなか勝てていないというのが現状である。
ウォルト・ディズニー社が経営に携わっていたことで知られる。そのため2002年のワールドシリーズ初制覇時の優勝パレードは、同じアナハイムにあるディズニーランドで行われた。
現在のオーナーはヒスパニックの実業家であるアルトゥーロ・モレノ。モレノはチケット、ビールの値下げ、家族向けの低価格帯グッズの販売などを展開し、ファン層の拡大にも力を注いだ。試合中はホーム球場であるエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムを歩き回り、ファンと積極的にコミュニケーションをとっている姿が見られる。その効果もあってかホームで試合が行われるときは、入場者数が常に3万人を超えており、スタンドはチームカラーの赤に染まる。シーズン入場者数は300万人を超え、メジャーでも常にトップ5に入る。チームの価値も上昇し、現在は2003年当時の買収額である約1億8000万ドルから約3億6800万ドルほどになったといわれる。
2005年から、広域的にも広告利益が期待できかつアナハイムを含むロサンゼルス地域に根ざした野球チームを目指すという観点から現在のチーム名である「ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム」に変更した。この名称変更に関して、地元ファンやアナハイム市は球団の態度に不快感を示すとともに、1996年に球団と市の間に交わされたアナハイムの名を明示的にチーム名に入れるとする契約に反するとして訴訟にまで発展した。後に球団側が勝訴し、現在では既にロサンゼルス・エンゼルスという名前が浸透している。
本拠地のエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムではラリー・モンキーと呼ばれる猿が人気を集めている。ラリー・モンキーとは直訳すると「逆転猿」という意味で、ラリー・モンキーが現れるのは6回以降でチームが負けているか、同点の時のみであり、ラリー・タイムと称してスコアボードの大画面にラリー・モンキーの跳ね回る姿が映し出される。2000年頃からこの猿が登場し、不思議とチームも逆転勝利を収めるようになったことから、ラリー・モンキーと名づけられ、現在では球場の名物として定着している。
日本人選手では長谷川滋利投手が1997年から2001年にかけて在籍していた。
球団の歴史
球団創設
戦前までメジャー球団は東海岸に集中していたため、ロサンゼルスなどの大都市が存在し、成長著しい西海岸へのメジャー球団の移転の話はたびたび持ち上がっていた。はじめにこれを検討したのがアメリカンリーグで、1940年にセントルイス・ブラウンズ(現在のボルチモア・オリオールズ)がロサンゼルスへの移転を計画した。しかし1941年の末に太平洋戦争が勃発したため、戦場となる可能性のあった西海岸でのプロスポーツの開催が困難となり、この計画は頓挫してしまった。1953年にはブラウンズが再びロサンゼルスへの移転を計画したが、球団自体が売却されたことで代わりにボルチモアへ移転することとなった。その後ワシントン・セネタース(現在のミネソタ・ツインズ)やフィラデルフィア・アスレチックス(現在のオークランド・アスレチックス)といった球団もロサンゼルスへの移転を計画したが、どれも実行はされなかった。
1957年、ナショナルリーグのブルックリン・ドジャース(現在のロサンゼルス・ドジャース)がロサンゼルスに移転し、戦後初めて西海岸にメジャー球団が誕生した。また同年にはニューヨーク・ジャイアンツ(現在のサンフランシスコ・ジャイアンツ)も西海岸に移転する。ドジャースとジャイアンツは初年度から多くの観客を集め、興行的に大きな成功を収めた。そのためアメリカンリーグでも西海岸に球団を置くことが再度検討され、1961年のアメリカンリーグの球団拡張計画に基づき、ロサンゼルスにおける新球団の設置が決定した。新球団の名前はロサンゼルスの地名の由来である「天使たち = the angels」から採り、これにロサンゼルスを冠して「ロサンゼルス・エンゼルス」となった。こうしてエンゼルスはその歴史を歩み始める。
アナハイムへの移転
1961年、初年度となったシーズンは70勝91敗でリーグ8位(10球団中)に終わった。しかしこれは戦後の新設球団の成績の中では最も良いものだった。初年度はロサンゼルス・リグレー・フィールドを使用していたが、2年目からはドジャースの本拠地球場であるドジャー・スタジアムを間借りする。2年目には86勝76敗で早くも勝ち越し、リーグ3位に食い込んだ。なお、この年の5月5日のオリオールズ戦ではボー・ベリンスキーがエンゼルス初のノーヒットノーランを達成している。1964年には82勝80敗で再び勝ち越し。この年にはディーン・チャンスが防御率1.65・20勝9敗を記録し、エンゼルスでは初の個人タイトルとなるサイ・ヤング賞を獲得している。
しかしこうしたチームの好成績とは裏腹にエンゼルスの観客数は伸び悩んだ。1962年から1965年までの4年間の合計観客数は300万人程で、同じ本拠地のドジャースと比べても半分以下だった。そのため間借りしているドジャー・スタジアムの賃貸料は割高となり、新球場の建設の必要性は明らかだった。1966年、ロサンゼルス南郊のアナハイムにアナハイム・スタジアム(現在のエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム)が完成し、チームもアナハイムへ移転。球団名も「カリフォルニア・エンゼルス」と改称した(州名を冠したのはミネソタ・ツインズに続き2番目)。移転の効果は抜群で、1965年には57万人程だった観客数も移転した初年度には140万人を記録している。1968年からはア・リーグ西地区に所属。しかし1970年代後半まで負け越しのシーズンが続き、なかなか優勝には手が届かなかった。
初の地区優勝(1979年)
1972年、ニューヨーク・メッツからトレードでノーラン・ライアンが移籍。当時のライアンは持ち前の豪速球には凄まじいものがあったが、コントロールに苦しみ、なかなか活躍できない状況が続いていた。しかしエンゼルスに移籍するや否や防御率2.28・19勝16敗・329奪三振という活躍をみせる。翌1973年にはサンディー・コーファックスが1965年に記録したシーズン382奪三振を抜くシーズン383奪三振を記録。翌年以降も毎年20勝前後をあげ、エンゼルスでは4度のノーヒットノーランを達成するなど、メジャーを代表する投手へと成長する。
1978年のシーズン途中にはジム・フレゴシが36歳という若さで監督に就任。フレゴシは元エンゼルスの遊撃手で、ライアンとのトレードでメッツに移籍した経緯を持ち、この年の5月に引退したばかりだった。この年には、フレゴシ監督の下、87勝75敗と8年ぶりに勝ち越し、2位でシーズンを終える。そして翌1979年には、ライアンに加えてロッド・カルー、ドン・ベイラー、ボビー・グリッチらを擁し、初の地区優勝を遂げた。カルーは首位打者こそ逃したものの打率.318と期待にそぐわぬ活躍をみせ、ベイラーは打率.296・36本塁打・139打点を記録し、ア・リーグMVPに輝いた。続くリーグチャンピオンシップシリーズではアール・ウィーバー率いるオリオールズと対戦、こちらは1勝3敗で敗れてしまった。
1979年限りでライアンがチームを離れ、翌1980年には65勝95敗と大きく負け越してしまう。また、この年にはNFLのロサンゼルス・ラムズ(現在のセントルイス・ラムズ)がアナハイム・スタジアムを使用するようになり、球場もアメフト兼用に改修され、収容人数も43,000人から64,593人に増加された。このためアメフト兼用に球場を改築した他球団と同様に、試合数の少ないアメフトの試合では観客席が埋まる一方、試合数の多い野球の試合では空席が目立つといった弊害に悩まされることとなる。1981年は前後期制が導入され、前期は31勝29敗で4位だったものの、ストライキで短縮された後期には20勝30敗で最下位に沈んでしまった。なお、この年にはグリッチが22本塁打で本塁打王に輝いている(22本塁打でのタイトルは戦後では最少。他にも3人が22本塁打を記録した)。
2度の地区優勝(1982年、1986年)
1982年には、ニューヨーク・ヤンキースからレジー・ジャクソンが移籍。前年は15本塁打と不調だったジャクソンだが、エンゼルスに移籍するや復活、39本塁打を放って本塁打王に輝いた。また、チームもジャクソンの活躍もあり、97勝69敗で2度目の地区優勝を果たす。続くリーグチャンピオンシップシリーズではミルウォーキー・ブルワーズと対戦。第1戦、第2戦と勝利し、リーグ優勝に王手をかけたが、その後2連敗。迎えた最終戦では7回まで3対2とリードしていたものの、7回裏に逆転を許してしまい、結局3対4で敗れ去った。その後、1983年は5位、1984年と1985年は2年連続でカンザスシティ・ロイヤルズに次ぐ2位に終わった。その間、1984年9月30日にはマイク・ウィットがメジャー史上11人目の完全試合を達成している。
1986年、ウォーリー・ジョイナーとチャック・フィンリーがメジャーデビュー。特にジョイナーは打率.290・22本塁打・100打点を記録し、新人王候補に名を連ねた(新人王は33本塁打・117打点を記録したホセ・カンセコ)。この年にはウィットを中心とした投手陣も抜群の安定感を誇り、92勝70敗で3度目の地区優勝に輝いた。リーグチャンピオンシップシリーズではボストン・レッドソックスと対戦。先に3勝をあげてリーグ優勝に王手をかけ、第5戦でもエンゼルスが8回まで5対2とリードし、優勝は目前と思われた。しかし9回表に、ここまでレッドソックス打線を抑えていた先発のウィットが、元エンゼルスのベイラーから2ランホームランを打たれ、5対4と追いすがられる。さらに代わったゲーリー・ルーカスがリッチ・ゲドマンに死球を与えて出塁。ここでたまらずクローザーのドニー・ムーアを登板させるが、デーブ・ヘンダーソンに2ランホームランを打たれ、5対6と逆転されてしまった。結局、9回裏にエンゼルスが1点を返して延長戦に突入するも、11回表にヘンダーソンに決勝の犠牲フライを放たれ、まさかの逆転負けを喫してしまった。これによって流れが完全にレッドソックスに傾き、続く第6戦、第7戦と連敗、またしてもリーグ優勝を逃してしまった。
ワールドチャンピオン(2002年)
1992年にはティム・サーモンがメジャーデビュー。翌1993年には打率.283・31本塁打・95打点を記録し、新人王に輝いた。また1994年にはギャレット・アンダーソンがメジャーデビュー。翌1995年に打率.321・16本塁打・69打点で新人王投票で2位に入った。1990年代はフィンリー、サーモン、アンダーソンを投打の柱として、一定の成績は残すものの、なかなか優勝には縁がないシーズンが続いた。1995年にラムズがセントルイスへ移転したことで、1997年にはアナハイム・スタジアムが野球専用球場に再改修された。またこの年にはウォルト・ディズニー社も経営に参加(この頃ディズニー社はNHLのアナハイム・ダックスを創設するなど、プロスポーツチームの経営に注力していた)。チーム名も地元アナハイムの地域密着型チームを目指すという理由から、ホームタウンの名前を冠して「アナハイム・エンゼルス」に変更した。
2000年からはマイク・ソーシアが監督に就任。同年にはトロイ・グラースが47本塁打を放って本塁打王に輝いている。グラースは翌2001年にも41本塁打を放ち、2年連続でシルバースラッガー賞を受賞するなど、チームの主砲として活躍した。
2002年には、地区2位だったものの、99勝63敗でワイルドカードを獲得。ディビジョンシリーズでヤンキースを3勝1敗で下し、リーグチャンピオンシップシリーズではツインズを4勝1敗で下して初のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではバリー・ボンズ擁するジャイアンツと対戦。ジャイアンツもワイルドカードから勝ちあがっており、史上初のワイルドカード獲得チーム同士の対戦となった。第1戦では敗れたものの、第2戦では若干20歳のフランシスコ・ロドリゲスが中継ぎとして登板し、3回を投げて初勝利をあげ、史上最年少のワールドシリーズ勝利投手として一躍注目を浴びた。続く第3戦は10対4で勝利。しかし、第4戦、第5戦と連敗し、ジャイアンツに王手をかけられてしまう。地元に戻った第6戦では、7回まで0対5とリードされていたが、7回と8回に3点ずつ取って、6対5で逆転勝利を収めた。第7戦では、先発のジョン・ラッキーが6回まで投げ、ジャイアンツを1点に抑え込むと、ロドリゲス、トロイ・パーシバルと繋ぎ、最終的に4対1で勝利。球団創設42年目にして初のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。
2003年以降
2003年のシーズン後にはヒスパニックで実業家のアルトゥーロ・モレノが球団オーナーに就任。約1億4600万ドルを費やし、大規模な戦力増強を行った。ブラディミール・ゲレーロ(5年契約、計7000万ドル)、バートロ・コローン(4年契約、計5100万ドル)、ケルビム・エスコバー(3年契約、計1875万ドル)といった一流選手を次々と獲得。補強の効果もあってか、2004年以降は3度の地区優勝を果たすなど、安定した強さを誇っている。
2004年は、2位アスレチックスを1ゲーム差でかわし、2年ぶり5度目の地区優勝。しかし、続くディビジョンシリーズでは、この年86年ぶりのワールドシリーズ制覇を果たすレッドソックスに3連敗を喫した。2005年には、チーム名を「ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム」と改名。この年には、地区2連覇を果たし、ディビジョンシリーズでヤンキースを3勝2敗で下すが、リーグチャンピオンシップシリーズでは、88年ぶりのワールドシリーズ制覇を果たすシカゴ・ホワイトソックスに破れ、リーグ優勝はならなかった。2006年は2位に終わったが、2007年には、2位シアトル・マリナーズをシーズン終盤で突き放し、8度目の地区優勝を果たした。しかし、ディビジョンシリーズではレッドソックスと対戦し、またしても3連敗を喫してしまった。
主な選手
現役選手
殿堂入り選手
- ロッド・カルー(Rod Carew)
- レジー・ジャクソン(Reggie Jackson)
- フランク・ロビンソン(Frank Robinson)
- ノーラン・ライアン(Nolan Ryan)
- ドン・サットン(Don Sutton)
- ホイト・ウィルヘルム(Hoyt Wilhelm)
- デーブ・ウィンフィールド(Dave Winfield)
永久欠番
- 11 ジム・フレゴシ(Jim Fregosi)
- 26 ジーン・オートリー(Gene Autry)
- 29 ロッド・カルー(Rod Carew)
- 30 ノーラン・ライアン(Nolan Ryan)
- 42 ジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson)
- 50 ジミー・リース(Jimmie Reese)
傘下マイナーチーム
| クラス | チーム | 参加リーグ |
|---|---|---|
| AAA | ソルトレイク・ビーズ(Salt Lake Bees) | Pacific Coast League |
| AA | アーカンソー・トラベラーズ(Arkansas Travelers) | Texas League |
| A+ | ランチョクーカモンガ・クエイクス(Rancho Cucamonga Quakes) | California League |
| A | セダーラピッズ・カーネルズ(Cedar Rapids Kernels) | Midwest League |
| Rookie | テンペ・エンゼルス(Tempe Angels) | Arizona League |
| オレム・オゥルズ(Orem Owlz) | Pioneer League |
外部リンク
- ロサンゼルス・エンゼルス公式ウェブサイト
- チームの通算成績と情報 MLB, or ESPN, or Baseball-Reference , or The Baseball Cube
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| ワールドシリーズチャンピオン ロースター | ||||||
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