小和田恆
小和田 恆(おわだ ひさし、1932年9月18日 - )は日本の外交官。チッソ元会長・江頭豊の娘婿であり、徳仁親王の岳父にあたる。称号は、早稲田大学名誉博士(法学)。敬和学園大学名誉博士(哲学)。バーナラス・ヒンズー大学名誉法学博士(Doctor of Laws)。
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経歴
新潟県新発田市に教育者小和田穀夫、静の次男として生まれた。本籍地は新潟県村上市。
旧制新潟県立柏崎中学校2年のとき、父の転勤により旧制新潟県立高田中学校に転校した[1]。新潟県立高田高等学校を経て、1955年 東京大学教養学部卒業。同年、外務省に入省する。
外務大臣秘書官事務取扱、1977年 福田赳夫内閣総理大臣秘書官に。秘書官には他に福田康夫、保田博、棚橋祐治ら。
以後、駐アメリカ公使、外務省条約局長、外務大臣官房長、OECD代表部大使、外務審議官、外務事務次官、国連大使などを歴任。2002年 広島大学学術顧問。
パシフィックコンサルタンツインターナショナル(PCI)にて2004年3月まで理事長を勤める。
ハーバード大学客員教授、コロンビア大学法学部教授、ニューヨーク大学法学部客員教授などとして海外の大学の教壇に立った。2004年現在、国際司法裁判所判事、日本国際問題研究所理事長で、放送大学での講義も受け持っている 。
国際法に通じ、外交関係の著作もある。
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家族 親族
- 父 小和田穀夫(教育者)
- 母 静(田村又四郎[2]の娘)[3]
- 妻 優美子(チッソ元会長江頭豊の長女)
- 長女 雅子(徳仁親王に嫁する)
- 次女 礼子(弁護士池田祐久に嫁する)
- 三女 節子(医師渋谷健司に嫁する)
- 兄 小和田顕(漢文学者)
系譜
- 小和田氏 小和田家は江戸時代、越後村上藩(現・新潟県村上市)の下級武士だった[4]。村上市に残る記録では、小和田姓の藩士名が散見される。それらの者は、下横目、同心、郡方懸りといった役であった。 しかし、それら小和田姓の藩士と恒の父祖とのつながりは不明な点が多く、明確ではない[5]。はっきりした系譜は金吉からしかわかっていない[6]が、金吉は小和田匡利の3男とする説がある[7]。皇室評論家の河原敏明が、平成5年(1993年)2月に村上市の西真寺(浄土真宗本願寺派)を訪ねた際、住職の本荘長弘師はその小和田家の墓について、毅夫氏が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した、と話した。「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。ふつう移すときはそっくりもっていくものなんですがねぇ」と住職夫妻も不審気だった。昭和61年(1986年)11月、恒氏が外務省官房長のとき、恒、毅夫の両氏夫妻が村上に来たが、そのときも祖父、曽祖父が眠っているにもかかわらず墓参していないことにも、理由をはかりかねていた。そこで小和田毅夫氏が、村上から墓を移したという新潟市の泉性寺(浄土真宗大谷派)に聞くと住職の広沢誠師が、「小和田家の墓は明治7年よりうちにあるが、金吉と兵五郎の墓はない。匡利(道蔵)の墓だけがあります。…30年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません」と述べ、西真寺の住職の話とは大きく食い違っている。[8]。金吉は明治の半ば頃、税務署に勤務していたとされる。毅夫は広島高等師範学校を卒業し、旧制福島県立相馬中学校をかわきりに各地の旧制中学で教鞭をとり、1958年に新潟県高田高等学校校長を最後に勇退。その後、市の教育委員長を務めるなど一貫して教育者として活躍した。
小和田金吉━小和田毅夫━小和田恆━雅子
参考文献
- 河原敏明 『皇太子妃雅子さま』 1993年
- 川口素生 『小和田家の歴史 雅子妃殿下のご実家』 2001年 68-71頁
- 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 2002年 394-401頁
関連項目
脚注
- ^ 『小和田家の歴史 雅子妃殿下のご実家』 69頁
- ^ 田村又四郎 - 村上藩士嵩岡可笑の3男として生まれ、田村寛一郎の養子となる。新潟中学校に国語・漢文の教員として勤務した
- ^ 村上市観光協会=武家屋敷
- ^ これには異論もある
- ^ 皇太子妃殿下雅子様ゆかりの地 村上市郷土資料館HP
- ^ 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 399頁
- ^ 『小和田家の歴史 雅子妃殿下のご実家』 37-40頁 - 小和田匡利は明治7年(1874年)7月28日に没するが 墓碑は村上にはなく新潟市の泉性寺にある。泉性寺の匡利の墓碑には「新潟県貫族 士族村上住 小和田匡利」と刻まれている
- ^ 『皇太子妃雅子さま』 161-162頁
