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読売新聞

東京・大手町にある読売新聞東京本社
読売新聞中部支社(旧中部本社)
読売新聞大阪本社
読売新聞販売店・YC東大阪市徳庵販売所


読売新聞(新聞の題字及び漢字制限前表記は「讀賣新聞」)(よみうりしんぶん)は、株式会社読売新聞東京本社、株式会社読売新聞大阪本社及び株式会社読売新聞西部本社が発行する新聞である。販売部数は1000万部を超え、世界で最も発行部数が多い(かつては旧ソ連共産党機関紙プラウダ)。ギネスブックにはHighest Daily Newspaper Circulationで、朝刊と夕刊をあわせて2002年に14,323,781部を発行したと記されている。英国Times紙と特約契約を交わした。また、親米保守派新聞として知られている。

目次

歴史

紙面・論調

紙面の編集方針や論調は右派保守主義だが、かつてはリベラルだった。現在は基本的に自民党支持、改憲支持、新自由主義経済改革支持である一方、大連立構想 (日本 2007)以降の社説等で見られるように民主党への論調は厳しい。なお、戦争経験者であり、靖国神社(特に遊就館)における歴史認識を批判する主筆渡邉恒雄は首相の靖国参拝に反対している。

政府の政策に関し、政策分野によっては(改憲問題、防衛政策など)、はっきり社の見解(社論)を打ち出すのが特徴である。他方、あまり得意でない政策分野については、基本的に官庁発表をベースに報道を行い、官庁発表に顕れていない問題意識を独自に掘り起こすような記事に紙面を割かないのも特徴である。また、個々の記者の見解が前面に出るような記事が少なく、社論に沿った記事がほとんどなので、記事間の意見の違いについて考えさせられる機会が少ないのも特徴である。

注目を集めた報道

一マスコミとしては初めての問題提起である「憲法改正草案発表」を発表し憲法改正論議のさきがけとなる。

また読売新聞は、サッカーワールドカップ(W杯)2002年大会の招致活動に対して、「日韓共同開催」を社論に掲げて、「日本単独開催」にこだわる日本サッカー協会・W杯招致委員会を厳しく批判する論陣をはった。事実上の招致の妨害活動は、読売ヴェルディの名称をめぐる、Jリーグ首脳部との確執が原因とみられる。

読売争議

1945年11月から1946年10月にかけて、2度にわたって起こった争議。一時的とはいえ、労働組合側が新聞の発行権を握った。

第1次争議

太平洋戦争終結後、各マスコミでは経営陣の戦争協力について糾弾する動きが見られた。読売も例外ではなかったが、他社と違ったのは正力の力が極めて強かったことであった。この力を背景に、正力は開き直って糾弾していた記者のうち急先鋒格だった5名を解雇した。従業員側はこれに反発し争議が勃発した。ところが、程なくして正力がA級戦犯指名を受けて巣鴨プリズン収監が決定し、経営側は急遽「リベラル派の馬場恒吾(1875~1956。ジャーナリスト出身)を社長にする」ことを交換条件に5名の復職と民主化を従業員側に提案。従業員側も同意して12月に一応の争議終結を見た。
それから程なくして読売社内に労働組合が結成され、委員長には、徹底したリベラリストで知られていた鈴木東民(1895~1979。後の釜石市長)が据えられた。鈴木は「民主読売」をモットーに「人民の機関紙たること」を宣言。編集局長・主筆・社会部長の主要3職も兼ねた。また、印刷部門の支配も労組に委ねられた。この頃、北海道新聞西日本新聞などでも経営陣追放などの動きが見られた。

第2次争議

「民主読売」の成立は他のマスコミに大きな影響を与え、さらには記者クラブ改革や新しい新聞の発刊にまで波及した。しかし、1946年に入るとチャーチルの「鉄のカーテン」発言から冷戦が事実上開始され、GHQの方針に微妙な変化が起こり、これが「民主読売」の前途に暗雲をもたらした。
1946年5月、馬場はいきなり鈴木の解雇を発表。これがきっかけで争議が再発した。民間情報教育局(CIE)は第1次争議では従業員側を影ながら応援していたが、この第2次争議では馬場ら経営側を応援した。従業員側はストライキで抵抗し、経営側の人間だった務台光雄はこれに対抗すべく警察担当となって、従業員排除のために警察やMPの出動を要請した。GHQの後ろ盾が急に無くなった従業員側は初めから不利であり、警察やMPともみ合いになって血まみれになりながら輪転機を守ったが、10月には鈴木ら労組の幹部だった37名が退社処分となって「民主読売」は崩壊した。

日本共産党などはこの争議を高く評価しているが、大勢的に見れば冷戦とそれによるGHQの方針転換に大きく振り回された争議と見ることもできる。また、馬場のイメージもあまり芳しくないが、馬場サイドから見ればGHQの方針転換に忠実に従ったまでのことであり、鈴木がそれを見抜けなかっただけだという見方もある。
この争議の混乱が尾を引いて読売は社の体力が大きく疲弊。読売の民間ラジオ局「読売放送」の構想が挫折した(後にラジオ東京の前身の一つとなった)。

疑義が持たれた報道、スキャンダル

1974年から1975年にかけて、読売新聞は名人 (囲碁)戦騒動をおこしている。名人戦は、高度成長期に14年間も、2500万円前後に契約金が据えおかれた。そこで日本棋院は、1億円の契約金を提示した朝日新聞に名人戦主催権を移すことを表明。あわてた読売新聞は、「金目当て」「信義がない」と激しいバッシングをほぼ1年にわたって囲碁界全体に加え、裁判にまで発展した。1975年、棋聖戦創設という形で落ち着いたものの、日本棋院のプロの卵である院生の数は激減。日本囲碁界の凋落と中国・韓国の台頭の一因となった。

1978年ドラフト会議前日に協定の隙を突いて、プロ野球セ・リーグの読売ジャイアンツと作新学院、法政大学出身(のち阪神タイガース読売ジャイアンツ、解説者)の投手江川卓が入団契約を結んだ事件。いわゆる江川事件のことである。これは栃木選出の代議士である船田中議員らが関与したとも言われ、その経緯は実録たかされ(原作:江川卓、作画:本宮ひろ志)などに詳しい。この事件は読売の100年史においてもその記載をどうするかで論議されたが、結局掲載を見送られるなど、読売社内においても一種の恥やタブー扱いになっていた。が、2005年の日本テレビのスポーツ番組においてこの事件が取り上げられ、内部での扱いが変化しつつある。

2002年4月、個人情報保護法案と人権擁護法案の国会審議入りに際して、日本新聞協会(会長 渡邉恒雄)は、表現・報道の自由を侵すとして廃案・出直しをもとめ、緊急声明までだして反対姿勢を示していた。ところが読売新聞は、個人情報保護法については、メディアを含めて守らなければならない基本原則のうち「透明性の確保」を報道分野だけ除外する、などを柱とした「「報道の自由」と両立を/修正試案を本社提言」を5月12日付1面で掲載した。5月13日、小泉首相は、読売試案を参考にして修正協議に入るように山崎幹事長に指示。事前了解済みを疑わせる怪しい動きに、ほとんどのメディアがこの読売試案に反発。「特定の大新聞がよければ「青信号」を出せるような法案ではない」(『北海道新聞』)「読売案は<歴史の汚点>」(月刊『文藝春秋』)という批判をあびた。

2004年11月5日、渡邉恒雄の名義とされる日本テレビ放送網株が讀賣新聞社の実質所有する株式である事を公表し有価証券報告書を訂正。これを受けて地方のテレビ局24社とラジオ局18社の株式を役員などの第三者の名義で実質保有している事も公表した。その結果、テレビ9社とラジオ3社に対する出資比率がマスメディアの集中排除の原則における制限を越えていた事実が明らかになる。その後、第三者名義にして制限を逃れる行為は他の全国紙や地方紙でも行われていた事が次々に発覚する。

2005年5月4日から5日早朝にかけてのJR福知山線脱線事故記者会見の席上、JR西日本の事故直後の対応やレクリエーションを中止しなかった事について、出席した記者が説明を求めて「あんたらはもういい、社長を呼んで」等と罵声を浴びせたり、感情的発言を繰り返していた事が判明。取材モラルに欠けていないかと読者や他のマスコミなどから批判された。後に、当の記者が報じられたことのうちの一部を否定している。

「社会部王国」

読売新聞は、かつて立松和博本田靖春(東京本社)、黒田清大谷昭宏(大阪本社)といった辣腕記者を社会部に擁し「社会面に強い」と言われた。とりわけ大阪社会部はコラム「窓」、長期連載「戦争」を拠点に、社会的弱者の視点に立つ特集記事を数多く発し、黒田が社会部長になってのち社会部は“黒田軍団”という異名で呼ばれた。しかし1980年代に社内で渡邉恒雄らによる保守的思潮が主流になると圧力が高まり、1987年に黒田は退社に追い込まれた。渡邉に放逐された記者は数多いが、渡邉が直接手を下すことはなかった。渡邉の意を呈した周囲が該当する記者を左遷したり、仕事を取り上げたりして、退社に追い込むのが常であったと言われている。
この行動は読売新聞の論説体系の統一の観点からは仕方無いものではあるが、読売新聞本来の魅力である「保守的なリベラル」というニ律背反しつつも社論は社論という絶妙なバランスに立脚した論説体系を捨てたという事で残念に思う旧来の読者が多い。

医療情報部

読売新聞は、他の全国紙にはない医療専門の取材機関「医療情報部」を持つ。同部長である前野一雄は、自身が脳動脈瘤、次いで甲状腺がんを患った経験を生かして「脳動脈瘤がある人の不安と選択」(ISBN 4-88320-246-1)、「甲状腺がんなんて怖くない」(ISBN 4-385-36190-8)を著している(後者は杉谷巌との共著)。また、「『健康常識』ウソ・ホント55」(ISBN 4-06-257370-9)で世間に伝わる「健康常識」に疑問を呈している。

中部読売の不当廉売問題

読売新聞中部支社#不当廉売問題(中部読売事件)を参照。

マスコットキャラクター

どれどれ

「どれどれ」の特長
  • 「大きな眼」は、将来を見通し、先見性を持って報道にあたる読売新聞の基本方針を示している。新聞を読んでいるのは活字を大切にする姿勢を、緑色は環境を大切にする姿勢を象徴している。
  • 「どれどれ」は、旺盛な探究心、好奇心を象徴する言葉である。
  • 2005年、スタジオジブリのプロデュースによる楽曲『どれどれの唄』(唄:拝郷メイコ)が発表され、読売新聞の企業CMに使われた。「どれどれの唄」は読売新聞各本社に電話した際、部署に繋ぐ際の保留音にも採用されている。
  • 因みに、宮崎駿は読売系列の日本テレビのマスコットキャラクターなんだろうも手掛けた。

だっち君

  • だっち君は、2002年に読売新聞夕刊のイメージキャラクターとして登場したコウモリのキャラクター。当初は夕刊のキャラクターであったが、後に購読申し込みのテレビCMや朝刊こども面のマスコットキャラクターにも起用されている。語尾に「〜だっち」と付けるのが口癖。「よみかきの森」に父の「であーる」、母の「ざます」、弟の「だっちょ」と一緒に住んでいる。

読売新聞とプロ野球

詳細については(読売巨人軍)を参照。

日本のプロ野球ファンの中でもっとも数が多いと言われている巨人ファンから見ると、読売新聞を巨人軍の「親会社」と考えてる者は多くても、巨人軍を読売新聞の「グループ企業」と見る向きは少ない。そのため、巨人軍に「読売」色が全面に出る事を嫌う人達も少なくない。逆に読売新聞側の経営姿勢が新聞の売上に影響したこともある。

  • 1980年、ファンから絶大な人気を得ていた長嶋茂雄が巨人軍監督を解任されると、ファンによる「読売新聞」不買運動が繰り広げられた。
  • ON対決となった2000年の日本選手権シリーズ後、特に九州地方で部数減の傾向となった。以降西部本社・大阪本社管内においては、地元の系列民放テレビ局(福岡放送ytv)への配慮から、それぞれ福岡ソフトバンクホークス阪神タイガースの記事も同等に取り扱うようにしている。
  • 2004年日本プロ野球選手会によるストライキが行われた際に、選手会を糾弾する社説を掲載したところ、余りにも事実からかけ離れた文面を展開(選手を「億万長者」と表現したことなど。実際に億万長者なのは一握りである)したためファンの反発は却って高まり、選手会への同情を集める結果となった。

Jリーグのチーム表記問題

掲載四コマ漫画

発行所

  • 東京本社 東京都千代田区大手町1-7-1
    • 北海道支社 札幌市中央区北四条西4-1
    • 北陸支社 富山県高岡市下関町4-5
    • 中部支社 名古屋市中区栄1-17-6
  • 大阪本社 大阪市北区野崎町5-9
  • 西部本社 福岡市中央区赤坂1-16-5
    • 北九州総本部 北九州市小倉北区米町2-1-1
印刷工場

各社の担当地域

株式会社読売新聞東京本社
青森県岩手県宮城県秋田県山形県福島県茨城県栃木県群馬県埼玉県千葉県東京都神奈川県新潟県山梨県長野県及び静岡県
株式会社読売新聞東京本社北海道支社
北海道
株式会社読売新聞東京本社北陸支社
富山県及び石川県
株式会社読売新聞東京本社中部支社
岐阜県愛知県及び三重県津市四日市市伊勢市松阪市桑名市鈴鹿市尾鷲市亀山市鳥羽市熊野市いなべ市志摩市桑名郡木曽岬町員弁郡東員町三重郡菰野町朝日町及び川越町多気郡多気町明和町及び大台町度会郡玉城町度会町大紀町及び南伊勢町北牟婁郡紀北町並びに南牟婁郡御浜町及び紀宝町
株式会社読売新聞大阪本社
福井県、三重県(名張市及び伊賀市)、滋賀県京都府大阪府兵庫県奈良県和歌山県鳥取県島根県松江市出雲市安来市雲南市八束郡東出雲町仁多郡奥出雲町飯石郡飯南町簸川郡斐川町並びに隠岐郡海士町西ノ島町知夫村及び隠岐の島町)、岡山県広島県徳島県香川県愛媛県及び高知県
株式会社読売新聞西部本社
島根県(浜田市益田市大田市江津市邑智郡川本町美郷町及び邑南町並びに鹿足郡津和野町及び吉賀町)、山口県福岡県佐賀県長崎県熊本県大分県宮崎県鹿児島県及び沖縄県

朝夕刊の別

北海道石狩支庁上川支庁空知支庁後志支庁胆振支庁日高支庁)、茨城県栃木県群馬県埼玉県千葉県東京都神奈川県山梨県静岡県滋賀県京都府大阪府兵庫県奈良県和歌山県山口県福岡県佐賀県大分県沖縄県では、一部地域を除いて朝夕刊セット。その他の県は朝刊統合版だが、特に中部支社版のみは対象地域全域が朝刊単独(但し、静岡県向けの夕刊は中部支社で印刷しトラック輸送している)。

中部支社版の紙齢(創刊からの号数)は、2002年6月30日付までは「中部読売新聞」として創刊された時からの紙齢だったが、同年7月1日付から、東京本社の支社になったのに伴い、東京本社版と同じ紙齢になった。ちなみに、「中部読売新聞」が「読売新聞」になるまでの1988年5月31日付まで、東京本社が愛知県岐阜県三重県向けの地方版「中京版」を発行していた(中京版のテレビ・ラジオ欄は静岡県遠州版と共有だった)ため、実質的には東京本社発の「中京版」と、中部読売(現中部支社)の発行する「中部読売新聞」が併売された格好だった。

在籍していた著名人

関連企業・読売グループの企業・団体

株式会社読売新聞グループ本社が支配している放送事業者

ここでは、放送局の開設の根本的基準(昭和25年電波監理委員会規則第21号)第9条(いわゆるマスメディア集中排除原則)に於いて「支配」に当たる10%を超える議決権を読売新聞の持株会社である株式会社読売新聞グループ本社が有しているものとして総務省のウェブサイトに於いて公表されている放送事業者を挙げた。

参考文献

関連項目

外部リンク

[ 読売新聞 ]の改訂履歴 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』
Text is available under GNU Free Documentation License.

関連リンク


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